OLD  BALL  PEOPLE

Volume 2  「背番号 42」 Volume  1  「シューレスジョー」


様々な人種が活躍する現代のメジャーリーグだが、古くは、やはり人種差別が大きな幅をきかせていた。
その壁を破ったのがジャッキー・ロビンソンという選手である。
「黒人初のメジャーリーガー」として新たな道を切り開いた彼の功績は、メジャーリーグだけに
留まらず、その他の社会にも大きな影響を与えた。
現在、メジャーリーグとしても彼が付けていた背番号42を全球団の永久欠番にして、その功績を称えている。
(余談だが、永久欠番の多すぎるヤンキースだけは守護神のマリアーノ・リベラが背番号42を
付けることを許されている。)

 ともあれ、このジャッキー・ロビンソン。1919年 ジョージア州に生まれる。
生まれながらにして厳しい生活環境にあったが、卓越したスポーツの才能が宿っていた。
しかし、どれだけすごい才能に恵まれていても順風満帆とは行かな かった。
それはやはり彼が黒人だから。当時はメジャーリーグに関わらず、いかなる社会でも黒人の参加は
公式には認められなかった。
メジャーリーグも白人のみのリーグであり、黒人は黒人のみのニグロリーグを形成し、そこでプロとして
野球をやるしかなかった。
  
 しかし、水面下ではロビンソンを巡る『ある計画』が進行していた。その仕掛け人は、当時ニューヨークの
ブルックリンに本拠を構えていたドジャースの会長ブランチ・リッキーである。リッキーの考えはこうであった。
『ニグロリーグの中にはとてつもない実力を持つ選手が多い。もし、彼らを登用できれば、必ず今以上に
エキサイティングなプレイで観客を楽しませることが可能
であり、ひいてはメジャーリーグの発展にもつながる。しかし黒人に対しての反発が大きいご時世を考えると、慎重に
動かなければならない。
ましてや、白人 との騒動などご法度。特に1番最初の選手で失敗すると、後々まで影響を
及ぼしてしまうため、絶対に失敗は許されない。』
そして、その候補としてロビンソンがリストアップされたのである。
      
リッキーとロビンソンが初めて会ったのは1945年のことで、「どれだけひどい仕打ちを受けようとも報復しないだけの
勇気を君は持っているか」とリッキーは問いた。
ロビンソン自身もかなり悩んだが、リッキーの真意を理解し、これを受け入れた。
このロビンソンの決断が後々のメジャーリーグ、そして他のスポーツにおいても社会に大きな影響を及ぼしていく。

 1946年、彼はドジャース傘下のモントリオール・ロイヤルズへ入団。数々の差別を受けながらも、打率.349、155安打を
マークし、チームの優勝に大きく貢献。そして翌1947年、ついにメジャーリーグのドジャースへ昇格した。
初めてメジャーリーグに黒人選手が登場したということで反発は非常に大きく、それは対戦チームのみならず、むしろ一緒に
戦うチームメイトがひどかった。
 それでも彼は、リッキーとの約束を遵守し、何をされても我慢し、決して報復することなく、ただただ野球に取り組むことで
必死に耐えた。
そして、メジャー1年目から151試合に出場し、打率.297、12HR、48打点、29盗塁という成績を残した。
シーズンが進むにつれてチームメイトも徐々に彼を認め出し、シーズンが終わる頃には、野球の実力で
誰もが認めるドジャースの一員となれたのである。
そしてこの年ドジャースは見事にリーグ優勝を飾る。さらにこの年から最優秀新人を
選ぶ新人王が制定され、その第1号としてロビンソンが受賞することになる。
新人王が別名ジャッキー・ロビンソン賞と言われる由縁である。

 1949年には156試合の出場で、打率.342、16HR、124打点、37盗塁と好成績で、首位打者と
盗塁王の2つのタイトルを獲得した。
この活 躍によりチームは2年ぶりのリーグ優勝を飾り、MVPも受賞と、華々しい活躍を見せた。この年以降、6年連続で
打率3割以上をマークする。
そして、1955年には彼自身5度目のワールドシリーズにして初めてに世界一の栄冠を手にする。

 その後、1957年に現役引退を発表。その頃には、多くの黒人選手がメジャーリーグの舞台で活躍するようになっていた。
今、あらゆるスポーツで  U S A  のユニフォームを着て活躍する黒人選手たち。
その、最初の道を切り開き、確かな一歩を標した一人と言えよう。